昭和四十七年九月二十二日 朝の御理解
X御神訓 「神は声もなし形も見えず疑わば限りなし恐るべし疑いを去れよ。」
確かに神様には声もなからねば姿も見えません。けれども姿のない神様を、そこにそれを神様のお姿と見、それを神の声と聞く、そういう頂き方の間違いない事を、お互い体験させて頂くのです。そこに神の姿を見そこに神の声を聞く。四神様の御教えの中に、流行歌の文句の中からでも、神がもの言うて聞かすとおっしゃった。そこに私が頂かなければならない、事が流行歌の所謂、文句からでも、ハッと思うほどしに、頂けた時には、そこに神の声を聞いた時ですよね。
人にえげつない事を言われた、と言うて腹を立てる。そこには所謂お道の信心の稽古をしておる者の姿はないです。そういう時に私共が教えられておる事は、それを神の声と聞けと頂かにや、そこんところがね、そん時腹が立たんように、神の声として聞きますというのじゃなくて、本当にそれを神の声として、聞く、神の姿としてそれを見る。そういう行き方が間違いないという体験をです。受けていくという事が、私は金光様の御信心だと思うですよね。又事実そうです。
昨日は親教会の秋の霊祭が、もう大変に盛大でした。私は本当に有難いと思わせて頂いた事は、親先生があんなにずっとお体が悪いですから、若先生が一生懸命なさる訳です。それを思いますのに、本当に若先生の年配の御信者さんが増えておるのに驚きます。だから私共全然知らない、もう本当に有難い事だと思わせてもらいました。信心のやはり、もう本当に神様は打てば響くような御方だと思いますよね。同時にお祭りが済んでから、総代さん、岸先生がいろいろお話をしておりましたが、来年の御本部参拝は百名の申し込みがしてあるのに、もう八十数名出来とるから、百何十名かになるだろうという事を言っております。
しかもあの素晴らしいなあと思う事は、その八十名が全部所謂お金が納まっておるという事です。もう本当にきちっとした事ですねえ。親先生がやっぱきちっとしておられるから、そうだなあと思います。勿論千円ずつの申し込み金ですね。そして話しておりましたが、あそこは善導寺の中町なんですけれども、中町からだけで、二十名お参りがありますという事であった。田主丸の上に麦生という所がありますが、あそこに、二、三人御信者さんがおりますが、その二、三人の御信者さんが、親先生からその話があった時に、どうでも麦生から十名、おかげを頂きますようにと、いうお願いがしてあった。
ところが先日から、六名お金が集まっておりましたが、今日の霊祭に参ってみえてから、また二名追加しましたから、このままでしたら十名以上おかげ頂くだろうと言うて、あちらの世話人の方が言われましたという、話もしてありました。もうこれは親先生のきちっとなされる、いわゆる几帳面な、御信心がそういう風に表れてくるのです。これはもう合楽の場合なんか、私がそういうところに欠げておりますから、まあだ今年の御本部参拝の旅費すらが集まっていない。持って来ん、皆が‥‥、いくら言うても言うても。私はそれを聞きもしませんけれども。
先日から総会の時に、博道先生が皆さんに、それこそもう本当に、頼むようにしてから言よりましたですね。でないと二十九日には納めにやならんのですから、どうでも早く納めて下さいとこう言う。それを聞いておるのか聞いておらんのか、ほけんごとしとるというのは、これは、‥‥これはしかし皆さんじゃないですねえ。これは私の信心をそこに、私は感ずる訳です。成程、これは本当に親教会を見習わせて頂かにやならんなあ。まあ合楽教会から二百名の申し込みがしてありますけれども。とても本当に合楽の二百名というのは、まあだ足らない感じがしますですねえ。しかもその相当の金額になります事ですから。
毎月五百円ずつの積み立てをなさっておられるのに、一遍で払うという人もあるけれども、中にはこげんして下さいというお世話がもう実に行き届いておる事です。これは私が皆さんに、どうしたまたずるい事かとか、まあ呑気な事かと、いう風に言わずに、もうこちらの信心を、そこに私は神の姿を見たり、神の声を聞いたりする訳です。もう引き締まる思い。それからお祭りが終りましてから、一年後に仕えられますあちらの初代の四十年の式年祭の何回目かの委員会がありました。
そこで私はまた驚きました事は、お膳部が出来て、お酒を頂く前に、みんな席に着いてしもうてからでした。こういう、初代大先生四十年式年祭奉迎委員会、組織案というのが出来ているんです。だからそれを検討する。だから総代さん方はそれを作る前、私共も三回参りましたけれども、これを作る前に何回も、先日の月次祭の時に、話があったんだそうです。それが例えば総務部を渕上先生に大体なっとったのが、岸先生に、これは案を渕上先生が作って来てあるのです。もう私は、いつも一杯機嫌で二人が、やりやりやり合うのは、昔からの事でしたけれども。
昨日ばっかりはもう、素面で側にはおられんごとやりやりやります。もう親先生が顔色を変えられる位でした。「ああた達が私が話す前に話すけんそげな事になる」と言うて、仕舞いに、まあ、やかましゅう注意をしておられましたけれども。それがもうほんなちょっとした事ですけれども、岸先生は、岸先生として、自分でなからねば出来ない事の役をしてあったのに、どういう訳で自分を総務部に持って来たか、とこういう訳なんです。それはああたがこれからの御用は一人でも若かもんにしてもらわにゃと言うたけん、私よりあんたの方が若かけん、私はあんたを総務部に持って来とる、というような、いろいろもうそれこそ周囲の者が、もう止めに入らなならんごと、やりやり。
初めて、あんな素面でやりやりやるのを見せて頂いてですね。ははあこれが三井教会の二つの柱、これで三井教会の運営があってるなあ、と思いました。世界に、ソビエトとアメリカがあるようなもんです。それで世界がまあ立ち行っておる、治まっておる。どちらかだけになってもいけないという事ですねえ、やはり。しかもそのやりやり、もう結局、そして言う事、もなあもいらん、こういう難しい役を、そんなら私がおかげ頂こうという風に、もうその後のスムーズな事。
それから、その後からのサッパリしておる事です。やりやりやっておるですけれども、別に断わり言い合う訳でもなあんでもないけれどもです。それがそんならどこにあるかと言うと、結局一年後に仕えられる、親先生の式年祭を、如何に親先生に喜んで頂くような、お祭りにしたい一念が、そういう事になるのです。あれの足を取ろうといったようなさもしい根性ではなくてです。あれを牽制しょうというのではなくて、もう本当にこれは驚きですね。もうその後の信心のサラッとしておる事。
そしてそんなら、そこんところに、二人の極端な意見と意見が、やりやりやるうちに、本当に素晴らしい、アイデアがスッと出てくる訳です。してみるとその岸先生と渕上先生のやりやりやられたそういう、中にです。私は霊様の働きは言うにさらなりです。けれども、神様の働きを、そこに感じん訳にはおられませんでした。こういう風に頂いて参りますとです。神は声もなし、姿も見えずと仰せられますけれども、信心してです。そこに神の姿を見、そこに神の声を聞けるようになる時に、私は金光様の御信心が、一人前だと思いますねえ。
その為に次まで凝りを持たないどころか、お互いがそれを、まあお二人の場合はそれを、神の声として聞かれたかどうか知らんけれども。私は横で聞きながら、それを感じた。ですからね、皆さん、本当にそれを体験しなければいけないです。誰からどう言われた、涙が出るほど腹が立った。けれども、ふっと日頃の教えに基づかせて頂いたら、それを神の声と聞かせて頂いたら、お礼が言いたい位な事、腹の立つ段じゃなか。そういう頂き方が出来るところにです。それから、今迄自分が感じ取る事の出来なかった、心の上の体験、又は形の上の体験が生まれてくるのです。
そこに神の声を聞けれるところ迄、お互いの信心を、そこに神の姿を、見る事の出来るところ迄、お互いの信心をです。体験という、その裏付けを、頂きながら、成程、間違いないなあ、全ての事を神の声と聞き、神の姿と見るという事の間違いないという事を、体験していく事なんだ。だからどんな、そこんところは状態であってもいいけれども、こと神様、という事を、焦点に置いて、それが言われたり行なわれたり、又は感じたりしておればいいという事。昨夜私遅うに、ここにお礼に出て来た時にもう、深閑としております中に、えらい話し声がごとごとごとしてる。
耳が遠いもんですから、どこでしよるか分からんのです。それから御祈念が終ってから、聞いていたら何のその修行生部屋で修行生の方達が話し合いをしてる訳です。えらい遅う迄、明日が早いとけ、寝らじゃこてと思わせて頂いて、ちょっと聞き耳、立てさせて頂いたら、よくは聞こえませんけれども、金光様、金光様という話が、いくつも出てくるんです。そういう時に私は安心致しますですね。例えばどんな馬鹿話をしておっても、中に金光様が出てくる限りは、絶対間違いはあるまいと思うのです。
これは私は家の子供達の場合でもそうです。長女がまだ中学の頃から、善導寺に日参をしておりました。私と親教会の関係がああいう難しい時代にこの人は参り続けました。まあ母親が言う事聞かん我ままだと言うて、ああたがちっと、どうにか言いなさらにゃと、言うてからその、申しよりましたけれども。豊美がね、あの善導寺参りを止めた時には俺が言う。だからあれがあっておる限りその事はもう枝葉だぞと私はいつも言っておりました。だから言うた事も勿論ありません。
そらもう勝彦が、ああたがどうとも言いなさらんけんでとこう言いますけれどもね。あれがね、まあだ御結界に奉仕をする。今はしませんけれども、子供の時には十一才からしてます。必ず久保山先生が下がられたら、その後を一時間丁度私共が夕食をする一時間を、させてもらう訳です。ところがこれはもう絶対でした。子供の時から親戚に歩きに行きますと、僕は奉仕があるけんで帰ると言うから、勝彦は帰りますと言うてから、周囲の者が言う位です。
だから私は家内にね、勝彦がね、もう神様の御用をしだごだにするごとなったら、言うけれども、あれが出来ておる限り、言わんでもええよ。もうこれが私は子供を見ていくひとつのポイントになってる訳です。それはもう本当に目に余る事が沢山ありますけれども。その目に余る事その事がです。決して人間的に眼に余る事ではない。その事が既に神様のお姿だという事なんです。子供がいう事を聞かん。こっちが神様のいう事聞かんけんというような。
以前お道の教師まで拝命致しましたですけれども。藤原という先生がおりました。女の先生が、ちょっともう気狂いじみたところがありましてね。それは家内でもなんでもちんちろまいさせられよった。そらもう私にでも態度がですねえ。何か自分が気に入らんとプーッと立って行ってから、楽室の方さえ入って行って、ほんな障子でんなんでんガチーッと言わせちから、入って行きよりました。けれどもね、私は家内に言よりました。
あの人を天地の親神様と思うて見りゃ本当、おかげ頂くよ、と言うて私は家内に言よりました。あれが天地の親神様のお姿だと、私えば師匠である私に対してです。例えば話半ばにしてからポンと立ってから、しかも障子をバチーッとこう、閉めて向うへ入っていく。「ちょいと待て、お前は何ちゅう態度か」と例えば言うてもよい位なんです。けれども私はそれを天地の親神様のお姿だと、思うておりますから、もうこちらの方がヒヤッとする位にありました。だから家内にも私はそれを言いました。
藤原さんを、あれを藤原さんと思うと、腹が立つけれども、天地の親神様のお姿だと思うて見たら、とてもこちらがおかげ頂く、ぞと言うて、私はそういう行き方で参りました。そんならそういう行き方をです。そんなら、皆さんが体得されたら、そこに神の姿を見る事が出来るじゃないですか、そこに、神の声を聞く事が出来るじゃないですか。そこから私は、金光様の御信心の本当なものが頂けてくると思うのです。
それは起きてくる事柄の中からでも、そうなんです。それを神の仕打ちと例えば頂いたらです。それをいわゆる御事柄として、合掌して受けなければおられんのです。そういう頂き方が、私は出来てくるところから神様の一分一厘間違いのない働きが、いわゆる自然の中に、事柄が、問題が、成就してくるおかげになってくるという事を、これは二十数年の信心体験からそれを言う事が出来ます。あん時言うとったら、あん時やかましゅう言うとったら、と後で、反省させられる事もありますけれども。そん時にはもう心から、お詫びをする。
ただ私がああいうつまらん事を言うたりしたりしましたので、神様の働きが、そこから間違うてきとるかもしれん。そこでそんならお詫びをさせて頂いて、詫びれば許してやりたいのが親心とおっしゃるのですから、お詫びをさせて頂いて神様のおかげ、神様の働きが、またスムーズになってくる事を願うのです。またそれだけではありません。どこにお粗末御無礼があるやら分からん。神様の働きの、お邪魔をするような事になるのです。私の方の子供達の場合でもです。七人の子供がです。成程こげんあらねばならんぞ。こうしなさいよ、と言うなら教育も出来ませんし、また言うて聞かせても、聞かないものを、聞かせようとも思いません。
もう神様のお育てを頂かなければ出来る事じゃありませんけれども。そんなら神様のお育てを下さるのに、都合のよいような、心の状態、が親自身に出来なければ、いけない事が分かりますね。うちの子供は器量が悪いから、うちの子供は頭が悪いから、と、悔やむ段じゃない、器量の悪いなら器量の悪い事を、お礼を申し上げにゃいけん。子供達が頭が悪い、という事でもです。ええ悪いじゃない、そこんところをお礼申し上げていかにゃいけん。
いつでしたか、夜の御祈念の時、士農工商という事を頂いた。うちの子供達の事を‥‥、若先生が普通高校、二番目の光昭が商業高校、三番目の幹三郎が浮羽工業、一番下の栄四郎が商業学校、成程、士農工商になってる。でなかったらです、神様の働きが十全たらしめる為に、子供達を、例えば四人の息子なら息子達をです、あらゆる面にお使い下さる、働きというものがあっておる。まあ頭が悪いから、試験に出来なかったから、こんな程度の低い高校にやらにゃならん、てん事じゃない。
その事をお礼申し上げねばならない、事が分かるじゃないですか。それにうちだけはもう絶対に明善高でなからにゃ出来んとか、と例えば有名高校に入れなければ親が承知しないという考え方がどの位、神様の働きそのものを、邪魔するかという事が分かるでしょうが。そげん所の子供に、絶対よか子供が出来るはずはないです。自分が親の考えでやりよるからです。そこに神の姿を見、そこに神の声を聞きえておったら、そういう矛盾と言うか、不自然な事でなくて、それこそ自然に上から下へ水が流れるような、スムーズさを持ってです。神様のお働きを受け止める事が出来るのです。
私は金光様の御信心はね、もう本当に天地自然そのものを、神様として頂くのですから、そういう行き方というものが身につかなければ、私は嘘だと思う。そこから自然が奏でてくれるリズムと私は申しますけれども、リズムに乗った有難い生き方、というものを日々の生活の中に、身につけていく事が出来る。だから腹立てんならんというような時でも、腹が立つはずはない、悲しまなければならんという時でも、悲しむ事のいらないほどしの、おかげが頂ける。そういう心の状態に、おかげを受け止める事が出来るのです。
今日は、この御神訓にもう全然、この御神訓の御神意からは離れた御理解だと思いますけれども。私は声もなしとか、姿も見えずという事を、その声を聞き、その姿を見れるようになって、初めて金光様の信心が体得出来る。決して神様という方は、こう白髪を生やした、何かまたステッキのようなものついてから、ござる神様じゃないという事。もう目の前に生神様がいっぱいござるという事。神の声はもうやかましい位に、実を言うたら聞こえてきておるけれども。心を澄まさせて頂くと、私だけが頂かなければならない神の声をそこに聞く事が出来るという事を今日は聞いて頂きましたですね。どうぞ。